
最近、SNSのタイムラインを眺めていると、RunwayやPikaで生成されたAI映像をよく見かけるようになった。光の反射、被写界深度、カメラワーク。数年前なら「AIでは無理」と言われていた表現が、いまや数クリックで出てくる。
それを見るたびに、「もう人間いらなくね?」というコメントがつく。確かに技術的な完成度だけ見れば、そう思っても不思議じゃない。
でも、僕はなぜかそうは思えない。むしろAIが完璧に近づくほど、どこか“気持ち悪さ”のような違和感を感じる。
現場の「偶然」が、映像の生命線になる
映像って、完璧であることが必ずしも良いわけじゃない。
撮影の現場では、想定外の風の強さや光の角度、演者のちょっとした間(ま)によって、「撮ろうと思ってなかった美しさ」が生まれることがある。
それはコントロールできない“偶然”なんだけど、だからこそ映像に生命が宿る。
AIが生成する映像は、あらかじめ学習された「美のパターン」から最適解を出してくる。
でも、現場で起きる偶然は“最適化”の外側にある。
予測できない乱れ、判断の遅れ、誰も意図していないズレ。
その「不完全さ」が、なぜか心を打つ。
ディレクションとは、選択の連続であり、感情の揺らぎでもある
僕はいつも現場で、シャッターを切る瞬間やカットを切り替えるタイミングに、明確な理由があるわけじゃない。
「意味はないけど、なぜかこの瞬間がいい」と感じることが多い。
それは感情の揺らぎや、空気の微妙な張りつめ方、相手の呼吸のリズムに反応しているからだと思う。
AIには、その“空気”がない。
AIはデータセットの中にある「似たような空気感」を再現することはできるけど、その瞬間の現場の温度を感じ取ることはできない。
映像を作るという行為は、カメラの後ろにいる人間が、世界とどう向き合っているかの記録でもある。
その“体験の痕跡”がないAI映像は、どうしても少し薄っぺらく見えてしまう。

偶然を模倣することはできても、体験することはできない
たとえばAIに「風に揺れるカーテン」を描かせると、本物っぽくはなる。
でも、本当に現場で風が吹く瞬間の“空気の変化”を感じてシャッターを切った人間の映像とは、根本的に違う。
AIは“偶然”を模倣できても、それを体験することはできない。
人間の撮る映像は、体験と感情の蓄積がレンズを通して滲み出る。
だからこそ、その人にしか撮れない画が生まれる。
AIの映像は、そのプロセスをすっ飛ばして結果だけを出す。
効率は圧倒的だけど、「人間が何を感じて撮ったのか」が抜け落ちている。
AIは人間を超えない、でも“鏡”にはなる
僕はAIが人間を超えるとは思っていない。
でも、AIが僕らの“美意識”を映し返す鏡のような存在になることは間違いないと思う。
AIが作る映像を見て違和感を覚えるとき、それは「自分が何を“美しい”と感じるか」を再確認する瞬間でもある。
AIの進化が、逆に僕らの観察力や判断力を研ぎ澄ませていく。
たぶんAIが映像を奪うことはない。
でも、AIが映像を「再定義」することで、僕らの人間らしさがより浮き彫りになる。
そしてそのとき、映像制作という行為は今よりずっと面白くなる。

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